記念講演

「都市格」のある住みよい大阪を

宮本憲一(滋賀大学名誉教授・大阪市立大学名誉教授) 

 いま日本は戦後史上最大の政治危機にある。安倍内閣の安保法制の強行制定、沖縄の辺野古基地問題、TPPなど戦後民主主義を崩壊に陥れる政策が進んでいる。これを足元の大阪で支えているのが、おおさか維新の会である。おおさか維新の会は自民党の憲法改訂に協同しようとしているが、その手始めに憲法の民主主義の根幹である「地方自治の本旨」を否定しようとしている。歴史的に形成された自治体としての大阪市の廃止と広域官僚行政体としての大阪都構想は市町村合併に続く地方の統治機構の改悪である。住民投票で否定された大阪都構想を再登場させること自体が地方自治の本旨に反する。大阪市民はダブル選挙で日本の民主主義の岐路に踏み出す誤りを犯した。この誤りはかなり多くの大阪府民が大阪の歴史の教訓を知らず、学ばず、大阪市を愛していなかったためである。今日は短い時間で歴史の教訓を十分に語ることはできないが、大阪の住民運動と府・市の政策が全国に影響を与えた教訓を環境問題に重点を置いて語ってみたい。 

1. 關一と「住み心地よき都市(アメニティのある町)」

 近代化と民主化が進み始めた大正の終わりから昭和の初め、大阪市は日本の都市政策の先端を走っていた。当時東京高商教授から大阪市の助役となり、次いで市長となり、近代大阪市の骨格を作ったのが關一である。彼は日本を代表する経済政策論・社会政策論の研究者であったが、市政を担当した20年の間に都市政策の基本を作った。彼の主な業績は次のようであった。

(1)産業基盤社会資本の建設(港湾・道路・橋梁・市電・地下鉄・電燈など)

(2)労働者・市民の住宅・生活環境(市場・託児所・病院・中之島公園など)

(3)教育・文化(大阪商科大学・大阪都市協会・図書館など)

(4)公害防止・環境(大阪衛生試験所・街路樹・緑化・大阪城)

 市民参加はなく、行政中心であったが、市民からは「關さん」と親しく呼ばれ、葬儀には8万人が参列するほど慕われた。彼は「一の小道にも理想が貫かれねばならない」という哲学を持ち、「上を向いて煙突の数を数えるだけではだめだ、下を向いて労働者の生活を見よ」という都市社会政策論を作り実行した。彼は市政の目標はその後の都市政策の理想となる「住み心地よき都市」といっている。「都市格」という理念は彼が都市政策の科学化のためにつくった大阪都市協会の創立記念日に中川大阪府知事と彼の都市政策の共同者であった岡実が今後の大阪市の目標として述べたものである。中川は産業だけでなく図書館などの文化の充実によって都市格を挙げよといった。岡実は大阪は天子のいる権力の「都」でなく人権を確立した市民の自由都市であれといった演説をした。私はこの2人の演説から、「都市格」こそ大阪が目指すべき目標とした。まさに大阪は権力のみやこの東京と違う自由な市民の自治・文化都市を理想とすべきで、關一はそのことを実行した。また当時の大阪の財界人も關を支える自由主義者がいた。たとえば宇治電(のちの関電)社長林安繁などは昭和10年にナチスの真似をした政府の統制経済を厳しく批判している。 

 この日本をリードした大阪の都市政治・経済・文化は戦争中の統制経済と戦後の占領行政に次ぐ中央集権的な行政と大企業の集積経済に従属して相対的に衰退する。 

2.革新自治体と公害裁判 

 一人あたりの国民所得が世界で27位でとなった今日、短期間にアメリカに次ぐ第2位となった高度成長を懐かしみ賛美する声が大きい。しかしこの高度成長の政治経済構造が、世界を震撼させた公害を生み出した。1960年代の大阪は今の中国の大都市よりも深刻な公害に覆われた。日本は欧米の研究者から近代化に伴うあらゆる公害が発生する「公害先進国」といわれた。企業は安全の投資を節約し、政府・自治体は高度成長政策に走って公害対策を行っていなかった。大学には公害・環境の研究機関は公衆衛生部門以外になく、多くの研究者は高度成長に協力し、公害の研究者はほとんどいなかった。庄司光さんと私が、1964年に出版した『恐るべき公害』(岩波新書)が最初の公害の啓蒙書であった。この暗闇の状態を破ったのは住民の人権を守る公害反対の世論と運動であった。1963〜4年の有名な静岡県の三島・沼津・清水の石油コンビナート反対運動が日本最初の環境アセスメントをして、政府の対策の不備を明らかにして勝利を収めたことが、市民運動を全国的に広げることとなった。欧米の研究者は日本の公害・環境政策は下からの住民の運動によって形成されたと評価している。 

 この市民の公害反対の世論と運動は2つの道を通じて、公害対策を前進させた。ひとつは市民の世論と運動を基底にして、労働運動と社共の革新政党が共同して、自民党政権に反対する革新自治体を作り、厳しい公害対策と被害者の救済をさせる政策をとらせたことである。東京の美濃部都政は企業に最高の公害対策を義務付ける条例を作って規制を強化した。この革新自治体の公害対策とそれを支持する国民の世論の圧力に屈して、1970年12月政府は公害国会を開いて14の環境法を制定し、翌71年環境庁を発足した。これによって、初めて公害行政は軌道に乗った。 

 他方企業の力が強く公害反対の世論や運動の弱いところでは、被害救済の最後の手段として、公害裁判が始まった。これまでの公害の民事的救済は財産権の侵害を対象としていた。健康障害については病理学・工学的な個別の被害原因の立証が必要であり、複数の企業の原因物質で、集団的な被害をどのように救済するかは新しい課題であった。このため若い弁護士や研究者の努力で、疫学による被害の認定・共同不法行為・立地の過失などの新しい法理が作られ、企業に最高の公害防止義務を請求した。世論の圧力もあって、2つの水俣病、イタイイタイ病、四日市公害の四大公害裁判はすべて原告の勝訴に終わった。公害裁判の進行に恐れをなした財界の妥協もあって、1974年世界最初の公害健康被害補償法ができた。これは欠陥もあったが、行政による救済の道を開き、特に大気汚染患者の救済を進めた。 

3. 大阪の住民運動と黒田府政・西淀川公害裁判など

 高度成長期の大阪府と財界は東京圏に追い付き追い越すために素材供給の重化学工業が必要と考えて、環境の良い関西随一の海水浴場や住宅・保養地のある堺・泉北地域2000haを埋め立て、新日鉄、関西電力、三井系石油化学など約600の工場のコンビナートを誘致した。このコンビナートは大阪の工業全体の50%にあたる大気汚染物を排出し、これまでの公害に新しい公害を追加した。しかし経済的な寄与度は10%以下で、大阪の地域経済に寄与することは小さかった。府は四日市と違って、このコンビナートには公害はないといっていた。堺から公害をなくす市民の会や科学者会議が1970年3月、地元の町内会の協力で行った大気汚染による疾患の調査で、40歳以上16%に達する慢性気管支炎などの症状が見つかり、あわてた府の追跡調査でも大気汚染の公害が発生していることが確認された。 

 大阪府はさらにコンビナートを拡張しようとしていたが、大阪石油化学の事故などが次々と発生し、公害反対の世論は広がり、堺市議会・高石市議会はコンビナート拡張に反対の決議をし、高石の議員は大阪府議会に座り込んだ。堺商工会議所はかねてコンビナートが地元の企業にはプラスにならず、公害の被害を受けていることを批判し、吉田久博会頭は公害反対の立場から府の拡張計画の再検討を求める声明を出した。1970年万博が開催され、その成功を誇示した左藤義詮知事が1971年再選のために立候補した。これに対して公害反対を掲げた憲法学者大阪市大教授黒田了一が社共と市民団体の支持で立候補した。万博の成果が大きいとしたマスコミの予想を覆して公害反対の黒田知事が誕生した。 

 約20年の革新自治体の時代の真ん中の8年間の黒田府政は環境・福祉・地方自治の面で成果を上げた。とくに全国に大きな影響を与えた行政は2つある。一つは大阪湾のその後の公害企業の立地を止め、先駆的な科学的環境行政を進めたことである。府は公害を基本的に解決するために主要企業の排出汚染物を徹底的に調べ、環境基準が達成できるための汚染総量から各企業の寄与度を決め、規制目標を明示した。それが「大阪環境管理計画」(BIGPLAN、1973年)である。これはおそらく当時の環境管理計画では世界のトップクラスの規制計画であり、総量規制を初めて実現し、他の地域の模範となった。また公害対策課の中にアスベストの対策係を置いた。この先駆的な行政は残念ながら環境庁がアスベスト対策に1985年まで全く動かなかったので、この係りも十分な調査はできず、継続しなかった。 

 もう一つは文化行政である。これまで文化行政組織は教育委員会にあり、教育行政の片隅に置かれていた。黒田府政は文化の向上を行政の最高目的に置き、行政として独立させた。これを立案するにあたって、梅棹忠夫、司馬遼太郎などが協力して、「下司の文化」に陥り都市格を失った大阪を再生する出発点を作ろうとした。この行政の最終目的は文化にあるという提案は高度成長で非文化的な社会を変えたいという世論に乗って広がり、文化庁を動かし、神奈川県長洲知事はあらゆる行政に文化の香りがいると提唱した。全国で文化行政が花盛りとなったが、90年代後半に衰退し、橋下徹の手で、この遺産は破壊された。 

 1975年以降高度成長が終わると、企業と政府は環境政策を後退させた。NO2の基準を三倍緩め、水俣病の患者切り捨てが始まり、大阪空港公害裁判の大阪高裁の差し止め判決を最高裁が否定した。さらに80年代に入り経済のグローバリゼイションが進むと、新自由主義の規制緩和、民営化、小さな政府の政策が進み、1988年公健法の第1種大気汚染患者の新規認定が打ち切られた。

 この環境政策の全面後退に抗して、最も重要な役割を果たしたのは西淀川の住民運動であり、公害裁判闘争である。西淀川公害裁判は大阪湾岸の広域の環境汚染を告発し、さらに道路公害を含め、損害賠償だけでなく、差し止めを求めた画期的なものであった。同時に西淀川の公害反対住民運動は全国の被害者組織の結成を進め、対政府闘争の先頭に立った。これまでの公害裁判が弁護士を中心にしていたのに対し、西淀川公害裁判は被害者を中心に、消費者運動や労働運動など地域の住民運動を総合する新しいタイプの運動であった。これは川崎、名古屋南部、尼崎の裁判闘争の原型を開いた。これらの裁判はのちの東京の裁判を含めてすべて勝利和解をかちとった。とくに西淀川裁判で、損害賠償だけでなく環境再生の道を開いたことが画期的なことであった。つまり、もう二度と公害を出さないような環境を作るという未来の青空の地域を再生する公共性のある被害者の運動が踏み出されたのである。この住民運動としての公害裁判闘争の伝統は受け継がれ、2014年10月泉南石綿災害最高裁判決で、国の責任を認める画期的な判決を勝ち取ることになった。 

 80年代には公害から環境へ住民運動が展開したが、その中で全国の環境運動をリードしたのは、1979年結成された日本環境会議の地域版の大阪都市環境会議(大阪をあんじょうする会)である。これは中之島を守る会―中之島祭りと共同して、水都再生、中之島の景観改善、公会堂の保存をはじめ、ガス爆発の都市災害の防止、都心の盛り場の復活などを掲げ、都市政策の学習会を重ねて若い街づくりの活動家を育てた。80年代には市政に対し大きな社会的影響を持った。さらにあんじょうする会の提唱で全国の水郷水都会議、小樽運河の保全、琵琶湖保全などの運動を創ることに寄与した。残念なことに21世紀に入って、このあんじょうする会の運動は中断した。 

 これまでの府・市の政策はすべて東京の後追いをして失敗し、卑近な独自性を出そうとして下司の文化を作ってきた。大阪の経済・文化の独自性を生かして内発的な発展によって、「都市格」を回復したいという願望は良心的な経済人をも動かし、大阪ガスの社長大西正文は1992年大阪商工会議所会頭に就任するときに、私のところに相談に来て、今後の大阪商工会議所の基本理念を「都市格」の向上に置きたいとされた。残念ながらこの政策は受け継がれていない。 

4. 大阪の住民運動の再生を

 これからの大阪の政治は府民の世論や運動にかかっている。その目指すべき方向は歴史の教訓に学ぶことであろう。公害を克服できたのは人権を守るための住民の世論と運動であり、それは憲法の地方自治と三権分立という民主主義を最大限に生かした政策の成果である。現代の「都市格」は憲法を都市生活に生かすことである。 

 違憲の安保法制を制定し、憲法を改悪しようとする安倍内閣を退陣させなければならない。そのお先棒を担ごうとしているおおさか維新の会の力を阻止しなければならないだろう。大阪都構想を修正する副首都構想はこれまでの東京後追い政策の失敗の総仕上げのような最悪の都市政策である。なぜ大阪がセカンド東京にならねばならないのか。中央政府の下請け地域は都市とは言えない。

 それは自治体ではない。副首都にこだわって、中央政権に尻尾を振って、政府機能の支店を作る制度作りに専念しては大阪の都市格はますます他の大都市に劣っていくことになろう。
 いま戦争法制に反対し、原発の再開を止め再生エネルギーを開発し、TPPのような新自由主義の政策に反対する世論や運動が大きくなっている。革新自治体の時代と労働組合の社会運動としての力は弱くなっているが、自由な市民や学生の個性のある運動が始まっている。真面目な経済人や第9条は保持したいという保守的な階層を含めて、環境や文化の住民運動がこの新しい動きと共同し、憲法を守る自治体を創る潮流が進むことを期待したい。 

 (参考文献)
宮本憲一『都市政策の思想と現実』(有斐閣、1999年)
同   『戦後日本公害史論』(岩波書店、2004年)
同   『自治 平和 環境』(自治体研究社 2005年)
大西正文『都市格について』(創元社、1995年)
ジェフリー・E・へインズ・宮本憲一監訳『主体としての都市・関一と近代大阪の再構築』(勁草書房、2007年)
藤井聡・村上弘・森裕之『大都市自治を問う―大阪・橋本市政の検証』(学芸出版社、2015年)
中山徹他『大阪の都市政策を問う』(自治体研究社2015年) 

 ―講師の紹介―  宮本 憲一 大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授
1930年、当時植民地であった台北(タイペイ)で誕生。15歳の時、猛勉強の末入学した「海軍兵学校」で終戦。戦争の惨状を広島駅で体験され、「戦争こそ最大の環境破壊」を原点とされました。その後、研究者の道を進まれ、金沢大学・大阪市立大学・立命館大学で教授を経て、滋賀大学学長を歴任され、自ら問題の現場に立ち調査・研究・提言をされるだけではなく、多くの学者・研究者を育てられました。私たち、公害・環境問題では、常に苦しい公害患者さんの現場に立ち、問題の本質を解明し、環境改善や予防対策の提言、何よりも汚染者・加害者へは厳しい批判を投げかけられ、環境保全運動を激励して頂きました。

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