第1分科会 資料1

「福島原発事故避難者:5回目の冬」 

福島原発避難者訴訟原告団 事務局長   
福島県双葉郡楢葉町 金井直子 

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から早4年10か月。いまだに国による避難指示や、逆に不十分な生活環境のままの避難指示解除のために、住み慣れた自宅や地域を離れ、不自由な生活は続いています。私達原発事故による避難者は、2011年3月11日の翌日、3月12日に国からの避難指示により、または自主的に放射能被害から逃れるために避難しました。特に強制的に避難指示を経験した私は、多くの人が口にするように当初は、原発が落ち着けばまたすぐに自宅に帰ることが出来るだろうと思っていました。しかし、その考えは甘かったのです。 

 私は東京で生まれ育ち、結婚後は、埼玉県所沢市に約8年間住んでいました。今は亡き父の定年退職を機に、両親が母の故郷である福島県双葉郡大熊町に移住。そのあとを追って平成8年に私達家族も同じく双葉郡楢葉町に移住して、震災と原発事故が起きる平成23年3月までの15年間を、夫と二人の息子と共にすっかり楢葉町の住民として溶け込み、楽しく充実した日々を送っていました。あの原発事故が起きるまでは、です。 

 今振り返れば、2011年は、福島県内のみならず、日本全体が大規模災害と原発事故が起きたことに大変なショックを受け、お互いに助け合い支え合おうという雰囲気になっていたと思います。事実、私達被災者は、全国全世界からの義援金の寄付やボランティアの善意の活動をいただき、震災後避難直後の生活をしのぐことが出来ました。本当に多くの皆様に、心から感謝を申し上げます。

 しかし、避難生活も2年目3年目を迎える頃、私の住む避難先のいわき市では、大変な事件が相次いで起こってしまいました。まずはいわき市役所玄関前の壁に【被災者帰れ!】の落書きが黒いスプレーで書かれたことを発端に、仮設住宅に止めてある車の窓ガラスが割られる事件や、ささやかな窓側におかれたプランター栽培のミニトマトやきれいに咲いた花が次々と切り落とされるという事件が起きました。続いて夏場は、仮設住宅の居住エリアにロケット花火が何発も撃ち込まれる嫌がらせもありました。地元のスーパーマーケットで買い物をすれば、誰ともなく「避難者はいいよね〜。お金をいっぱい持ってるからたくさん買い物できるわ〜!」などとレジ待ちの列で大声で叫ぶ人、果ては避難指示区域から理不尽に転校を余儀なくされた子供達の間でも避難先の学校で「放射能がうつるから来るな!」などとの暴言を吐かれて不登校になった子供が多く存在している事実も実際に聞きました。 

 なぜ?このような理不尽なことが起きるのか?私達は確かに原発事故で避難をし、なお避難指示区域内の住民には加害者の東京電力から世帯ごとに賠償金の支払いがなされています。でも、それはあくまでも原発事故が起きたことで自宅を追われ避難生活を余儀なくされ、事故以前は平穏に生活していた大切な地域コミュニティが喪失してしまったことをはじめ、突然、日常の生活が崩壊してしまったことに対する一時的な弁償に過ぎず、金額の査定の主導権は全て東京電力側にあり、決して私達が元通りの穏やかな生活を取り戻せているんだ、ということではありません。しかし、一般メディアの見出しには原発事故避難者は多額の賠償金を得て働きもせずに怠け者になり、そのお金で豪遊している、かのような誤った記載も多くあり、事実と違う先入観を持たれて誤解を受けることもあります。本当に困ったものです。 

 私は、2011年10月に初めて、原発事故被害者の相談会に参加して、地元いわき市や首都圏からの有志の弁護士の先生方に先の見えない途方もない不安と絶望感から何とか脱出できる方法がないかとすがりました。そして、その後何度も相談を重ね、ついに原発事故から1年8か月後、福島原発避難者訴訟原告団を結成し2012年12月3日に福島地裁いわき支部に裁判を提訴しました。その当時は無我夢中で、同じく楢葉町、隣の広野町・南相馬市・そして事故を起こした福島第一原発の立地する双葉町の避難者17世帯39名が第1陣1次原告となり、その後現在は、第5次原告団まで追加提訴を行い、合計189世帯586名の集団となりました。この中の原告には、富岡町・大熊町・浪江町・川内村・葛尾村と、いわゆる福島県双葉郡の8町村すべての住民が原告団に参加するという結果となりました。
 
 なぜ?裁判を起こしたのか?と、よく聞かれます。一般的には裁判闘争などという環境を好き好んで選ぶ人は少ないでしょう。ましてや原発事故避難者である私達が地元企業である東京電力を訴えるなどとは、本当に覚悟と勇気が要るものです。事故が起きるまでは確かに原発立地城下町として東京電力とは共存して地域で暮らしていたわけです。もちろん地元採用の社員も多く双葉郡に住んでいましたし、家族ぐるみのお付き合いや子供同士が同級生や先輩後輩という話もあたり前の地域です。
私も悩みました。でも、その迷いの気持ちを前向きに突き動かしたのは私の母の存在でした。先に述べた通り、私の母は第一原発のある大熊町にUターンしていましたので私の実家は大熊町であり、すでに他界していますが祖父母の家も大熊町です。田舎ですから当然、叔父や叔母も多く住み、従兄たちも住んでいました。小さい頃は夏休みや連休にはよく遊びに行って過ごしたものです。
そんな私の大切な家族や親戚から、平穏な生活を奪った原発事故の責任は、いったい誰が取るのでしょう?福島の事故の教訓も学ばずに、原発再稼働や原発輸出などと、経済最優先で私達を無視して、私達のささやかな幸せを奪っておいて、 誰も責任を取らない、あやまらない、学ばない、そんなことは絶対に許されません。 

 今現在も、原発事故による避難者は自主避難者と言われている避難指示区域外からの住民も含めて数多くの人々が避難生活を続けています。 但し、悲しいことに、ここでも差別は生まれています。事実、避難指示区域内外の住民同士の対立もあります。先に述べたようないわき市の賠償金の支払い金額格差への不満の例もありますが、福島県から県外や首都圏に避難した人の間では、【自分は原発事故避難者】と知られることが偏見と差別につながるので避難者と思われないように静かに目立たないように生活している、とも聞きます。 

 実は裁判も先月の12月9日で第14回目の公判を終え、原告本人尋問の段階に入っていますが、今までの13名の原告の方々の発言に共通する言葉は、「なんで、こんなことになったのか?いまだに仮設住宅住まいは本当に辛い、悔しい、そして情けない、みじめだ。」「原発事故さえなかったら、放射能汚染がなかったら、とっくに自宅を再建出来ていた、広々とした自宅で息子夫婦や孫たちに囲まれて楽しく暮らしていた。」「代々受け継いできた農業で、やりがいのある仕事と生産者としての誇りを失わずにすんでいた。」「老後にこんな目に遭うなんて夢にも思わなかった。」「自宅にいれば自由に自分達の思うように生活できていた。」「狭い仮設住宅で長期間の避難生活でストレスがたまり続け、体調を崩すと同時に気力体力も低下した。」「親が一気にボケた。」「息子や娘や孫たちは、首都圏や福島県外に避難して定住してしまい、高齢者だけが取り残された。」そして、原発事故避難者の最大の懸念は【生きることに疲れた。】なのです。 

 私の母も大熊町の自宅にはもう二度と帰ることは出来ません。今年84歳になる母の心情を思うと、皆さんに原発事故がどれほどの過酷な体験だったかということの全てを言葉では伝えきれません。それでも不幸中の幸いで娘の私がそばにいることで、何とか日々の生活は自立できています。同じ体験・同じ避難者・家族だから、本当の信頼関係で結ばれていることが唯一のお互いの支えになっています。
そんな母は、原発事故後、私達と一緒に借り上げ住宅に居りましたが、狭くて生活リズムが違う私達家族といることに母も私もストレスがたまり続け、2週間ほどで近くの別のアパートに移り生活していました。もちろん私のそばに居ることが絶対条件でした。但し、避難の混乱の中では自由に物件を選ぶということも出来ず、外階段のついた2階の部屋を借りました。しかし、高齢でリウマチの持病もある母は足腰も弱く、足が上手く上がらず2回も階段で転倒しました。そして気力体力も限界が近づき、また大熊町は帰還が永久に無理だということを理解して、2013年秋に中古住宅をいわき市内に購入しました。もちろん源資は東京電力からの賠償金です。不動産探しから契約手続き・引っ越しの一切を私が手伝いました。引っ越してご近所への挨拶周りをした時に、一軒だけ「どちらから来たの?」と聞かれ、母は「大熊町からです。」
と答えた途端「あら〜じゃあ、お金いっぱいもらったんでしょ?」と言われたことが忘れられません。母は、黙って下を向いていました。まさしく【みじめ】でした。母も父が病死してから、一人で年金と預貯金をやりくりして十分な生活を送ることは出来ていましたし、私も正社員として楢葉町の事業所に勤務していました。それが原発事故による避難指示による事業所の閉鎖で解雇になりました。幸い、夫や息子達が仕事を失わずに済んだおかげで、何とか日々の生活を送ることが出来ています。  
だからこそ、裁判をはじめ、原発被害者を救済するための活動に当事者として身を置いているわけです。この原発事故の負の遺産は、廃炉まで30年〜40年かかると言われており、その計画さえも予定通りに立ち行かなくなることが懸念されています。加害企業の東京電力、そして国策エネルギー政策として原発を推進してきた国の責任は重いです。 

 強いものが守られ、弱いものが犠牲になる。そんな社会はあってはなりません。しかし、福島の原発事故後の様々な情勢は、決して住民の目線で進んではいない、弱者切り捨ての世の中に猛進しているように思えてなりません。 

 私は、今後も未来の福島県の子供達のためにも、今自分に実行できることを出来る限りは続けて行く覚悟です。  
それは、皮肉にも今から19年前に、自ら望んで移住した福島県が原発事故によって変貌させられたことを後世にしっかり伝えることと同時に、福島原発事故の被害者が言われなき偏見によって分断されることや、無理解による差別を受けて悲しむことを無くすための努力をし続ける意味があると信じているからです。 

 最後になりましたが、本日はお招きいただきありがとうございました。
また、『公正な判決を求める署名活動』『避難用住宅提供打ち切り撤回署名』へのご協力も、どうぞよろしくお願いいたします。

上記資料のPDF版はこちらをダウンロードしてください。
第1分科会資料1 「福島原発事故避難者:5回目の冬」